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Aさんのお話

Aさん:大槌の仮設住宅に住む50代女性

 地震の時は仕事場である漁港の水産加工場にいた。経験したことのない揺れが長く続いた。「津波が来る」とのアナウンスがあり、高い階に上がったけれど、最初はそれほど危機感はなく、みんなで「怖かったね」などと言いながら歩いて移動していた。そうしたらたちまちものすごい水が来た。あっという間で、ただ茫然と見ているだけ。家のあった地域は根こそぎ流された。

 避難所にたどり着いたけれど、家族がどこにいるかわからない。探しに行こうにも移動手段がない。生きてるかどうかさえ、数日間わからなった。

 避難所は小学校。余震が危険なため、最初は校庭にいたが、寒すぎて結局中に入った。自分たちは給食の配膳室にいたのだけれど、コンクリの床で、湿気が酷い。支援物資の入った段ボール箱をもらって、それを敷き詰めて凌いだ。仕事用のゴム長を履いていたので、暖かくて少し助かった。

 避難所生活はつらかった。ほんとうに、色々と。あれに耐えたのだから、もう何があっても耐えられると思う。

 お風呂に入れないから、きれいな人でもフケだらけの頭をしている。人の様子を見て、ああ自分もそうだろうなと思っていた。

 トイレがひどいことになって、きつかった。山のようになったものを、しゃもじですくって捨てた。もうほんとうに、ひどいものだった。

 自分たちのところは、食料がすぐ届いたけれど、なかなか届かないところもあったらしい。「家族の分」と言って一人で何人分ももらっていく人がいたりするが、確かめようがない。おむつや生理用品などがなく、必要な人は本当に困っていた。

 家が流され、文字通り何もなくなってしまった。着るものも、上から下までみんないただき物。でもそんな中でも、女性はみんな自分に似合いそうなものを一生懸命選ぶ。それはやっぱり大事なこと。似合うものを着なければ。

 海の底は今宝物がいっぱいねって、よくみんなで言う。みんなが家に大事にしていた値打ちのあるものが全部海の底に沈んでいる。アルバムも。

 見つかった写真が展示されているというところに行ってみたけれど、あの中からとても探せるものじゃなかった。だから写真も1枚もない。

 ***<思ったこと>***

Aさんはご家族は無事だった模様。家族を失くした人がたくさんいらっしゃる中では口にされないことだけれど、家を失い、大切にしていたものを失い、今までの生活を失うことがどれほど苦しいことか。人の世話になり、人に物をもらって、「ありがとう」「すみません」と言い続けながら暮らすことがどれほどストレスか、改めて気づくことになりました。

 人にとっての「持ち物」は単にその用途を果たすためにあるのではなくて、自分の歴史、どう生きてきたかの証でもあります。物を失ってしまうことで、「自分らしく生きること」も難しくなる。「命が助かったんだから、いいじゃない」は、確かにその通りなんですが、言われてうれしい言葉ではないんだなとわかりました。


震災時のこと、その後のこと、いま現在のこと。

被災地訪問で出会った方々から聞いたお話をご紹介します。

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