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宮古薬剤師会 吉田先生のお話

宮古薬剤師会会長

宮古市健康堂薬局にて

 あの時、揺れが収まって、近くの栄町の店舗に駆けつけると、そこでは防災無線の音は聞こえておらず、従業員たちは津波が来ることも知らずに、停電し余震が続く店内でお客さまに対応していました。大変なことが起きているということはその時にはわからなかったのです。栄店はその後前の川が溢れて泥をかぶりましたが、海に近い本店は津波に呑まれて全壊し、2人が犠牲になりました。(犠牲になられた方は吉田先生の奥様のお母様と妹さんでした)

 ここ(健康堂駅前店)はギリギリで水は来ませんでした。地震で棚のものが散乱し、水道も電気も止まりましたが、薬局の機能を失うことはなかったのです。そのためすぐに業務を再開し、地域の調剤の拠点となりました。

 この地域の拠点というだけでなく、自分の町の薬局が被災してしまった他地域の患者さんも、病院が被災して院外処方になった患者さんも、すべてここに来られるため、この店内に(注:駅前の、普通の大きさの薬局。待合スペースもそれほど広くありません)患者さんがあふれかえることになりました。1日に200枚の処方箋を処理したのです。

 津波の被害が、通常の地震の被害と違うのは、外傷の人が少ないということです。つまり、それだけ犠牲になってしまう人が多いのです。薬のニーズも、怪我や火傷ではなく、いつも飲んでいる持病の薬、避難生活での体調悪化など、慢性疾患の医薬品が多く必要になります。

 しかし、お薬手帳を失い飲んでいた薬がわからない方も多く、その分聞き取り作業に時間がかかります。薬歴がわからないことと在庫の関係で、薬は最大1週間分しか出せません。それで患者さんは頻繁に薬局に来なければならない。ますます混む、という循環です。

 電気が止まっているものですから、日が落ちると店内は真っ暗です。暗く寒い中でスタッフは20時間体制で働きました。

 誰もが経験したことのない事態です。状況は刻々変わり、その場その場で、それに向き合う人が判断して対処するしかないわけです。普通の時のルールで、決まり通りにやれるわけはありません。

 たとえば、薬の配給も、各拠点に1類も2類も(注:一般用医薬品の種類。販売方法にルールがあります)同じ量だけ均等に配分されたりします。他の物資と同じ扱いにされ、これは市がもらったものだから平等にしなければならないと言うのです。万事、そのような硬直した運用が壁になりました。非常事態には、現場にいるものが、今このとき最善であるという信念のもとに、結果を引き受けてやっていくしかないのです。

<最後に先生に「薬剤師会長として、薬局経営者としてではなく、個人として一番苦しかったことはなんでしょうか」と質問しました>

 家族のことです。妻の母と妹が行方不明でした。捜索もままならず、情報もない。妻も薬剤師でこの事態に対応しなければなりません。心痛を抱えながら仕事をするのを見ているのは、本当に苦しいことでした。

 ***思ったこと***

私達が行くと、資料をコピーして待っていてくださいました。客足が絶えない駅前のお店。ここが広いエリアの人々の命綱になっていたんだと、改めて店内を見回しました。3-4月の岩手はまだ真冬。余震も毎日あったことでしょう。暖房も照明もない暗い店内にお薬を待つ人々が溢れている光景を想像してみました。

自分たちもまた被災者であり、不安と悲しみに満ちていても、目の前の人たちの健康を守るため、前例のない困難に立ち向かったくださった方々にただ頭が下がります。


震災時のこと、その後のこと、いま現在のこと。

被災地訪問で出会った方々から聞いたお話をご紹介します。

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