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Sさんのお話

看護師さん。震災後に釜石に戻り、仮設住宅入居者のサポートに

 震災の時は千葉にいました。大きな揺れを感じた時、「三陸沖だ」と直感しました。そして、釜石にいる親族たちのことを、「ああ、あの人たち、死んでしまう!」と思いました。なぜそう思ったかというと、その数日前にも三陸沖で地震があったからです。その時電話をして、「またあるかもしれないから、津波に気をつけてねえ」って言ったら、「だーいじょうぶ、ここの防潮堤は6mあんだから!」。そう言っていました。昔の津波(注:チリ地震は1960年)覚えてる人も少なくなって、みんな実際の津波を知らないんです。

 この大きさの地震が起こったら間違いなく三陸に大津波が来る。でもあの人たちはきっと逃げない。6mの防潮堤があるって、安心しきっているから。そう思って、絶望的な気持ちになりました。ニュースも何も見ていない時点で、わかったんです。

 それから1週間、誰の安否もわからないままでした。電話も通じません。行こうにも、交通手段がありません。少し様子がわかるようになって、何とか行けたとしても、滞在するところもない。無事だった親族のところに皆が厄介になるのですが、私が行ってもそこの人数を増やすだけになってしまいます。だからしばらくどうしようもありませんでした。

 避難所には支援物資が届きますが、避難所に入っていない人には配られません。だから必要なものを届けようとしたのですけれど、情けないことに、こちら(関東地区)の人が買い占めてしまって、手に入らないんです。カセットコンロを送りたくて、探し回っても、どこにもない。あれには本当に腹が立ちました。被害なかったのに、被災した地域で必要なものを回そうとしてはくれないんです。

 親戚の中学生の娘が、地震の後、病院に勤めている母親のところに向かったんです。母親は娘に「あそこに行ってなさい」と指示し、送り出したのですが、その子が向かった避難先は流され、それから行方が分からなくなりました。結局後で無事に再会できたのですが、もしあの子が犠牲になっていたら、母親は一生自分を許さなかったでしょう。あの子はたまたま運が良かった。でもそうではなかった人の話がそこらじゅうにあります。

 行方不明の親族がいたから、遺体を探す毎日のことはよくわかります。ああいう時は、女の方が強いですね。男の人は、遺体置き場に入れない人もいましたね。

遺体は番号で管理されるんですよね、普通は。でも、見つかったとき、名前を書いてくれてた。うれしかったですよ。番号じゃなくてね。一人の人間として扱ってもらえたのが。本当に。。。

 津波は、すべてを持っていきます。全部がれきになってしまって、亡くなった人の形見になるものも、何も残らないんです。まったく何一つ。

 ***思ったこと*** 

離れたところから、津波に蹂躙される故郷を見ておられたSさん。あの中に愛する人たちがいるのに、何もできない。その心痛と焦燥感と無力感はいかばかりだったでしょうか。

その時期のことを、まるでつい最近のことのように、正確に細かいところまで覚えておられます。まだ少しも時間に癒されていないのだということがわかります。Iさん同様、落ち着いて淡々と話されるから、もちろんある種の「折り合い」はつけておられるのでしょうが、ものごとがこころの中でいい意味で「風化」するのはまだまだ先のことのようでした。

Sさんは震災後、故郷の人の役に立ちたいと、戻ってきて仮設住宅の方々の健康をサポートしておられます。

災害の中でも、津波の過酷さは、破壊しつくすこと、徹底して奪い去ることだと思います。大切な人の生きていた証が、心の拠り所とできるものが、形として何もないことの悲しさ。人は生きてきたことを認められなければならないし、番号ではなく名前で呼ばれなければなりません。大切な命の一つ一つが、どんなに残酷に翻弄されたか。一人一人のお話を聞くにつれ、その経験の大きさに粛然とします。そして、お聞きしたことを伝えなければという思いを強くします。


震災時のこと、その後のこと、いま現在のこと。

被災地訪問で出会った方々から聞いたお話をご紹介します。

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