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Kさんのお話

二人の友人の30代女性。大槌から釜石へ仕事で通っている

職場のある釜石で被災し、大槌の自宅に帰れるまで何日もかかった。電気はないし、携帯もつながらないので、被災地には何の情報もない。外の世界の人が知っていることも、渦中の自分たちには全然届かない。家族や知人が無事かどうか、他の町がどうなっているのか、何もわからないまま。

どこそこの地域が「壊滅状態。何もない」と聞いても「いったいなに言ってるの?」という気持ち。信じるとか信じないとか以前に想像ができない。

やっと道が通れるようになって、同じ方向の人と一緒に大槌を目指した。そしてこの目で見た光景。めちゃくちゃになった町に大きな船が乗り上げている。「なんなのこれは!?」

涙が止まらなかった。

自宅からもう少しのところで波は止まり、家も家族も無事だった。

それはほんとうに本当にありがたいことなのだけれど、自分に家があることが、申し訳なくて。

自分の町がこんなになって、自分の町の人々が苦しんでいるのに、自分はよその町にお給料をもらう仕事をしに行く。それが申し訳なくて。

家のすぐ近所が安置所。出勤するときも、帰宅の時も、帽子を目深にかぶって、うつむいて人目を避けていた。ここは水が出なくて大変だっていうのに、洗車されてきれいな車で送ってもらうのがもう。。。

いまでも、自分は地域のために何もできなかったという後ろめたさを忘れられないでいる。

釜石の職場に出社したけれど、被災を免れた地域にある職場はとても「ふつう」で、津波にやられた地元との落差が大きすぎて、気持ちをどう調整していいのかわからなかった。それに、なぜか周りの人の対応がぎこちない。あとで「こんな会社が大変な時に2日も無断で休んで、どういうつもり?」と思われていたと聞いて、あまりのことに呆然とした。悔しくて情けなくて。でも説明する気にもなれなかった。

あとで、「大槌があんなひどい状態だとは知らなかったから。心無いことをした」と言ってくれた人もいたけれど、人間わが身のことにならないとわからないものなんだ。無理もないことだったんだろうけど、今も思い出すとつらい。震災で「絆」を感じることももちろんあったけれど、こんな「断絶」を感じることも多かった。

震災後、人生に対する意識が大きく変わった。今までの生活は「終わった」と思った。

家に帰って真っ先にやったことの一つは、「薬王堂」(注:東北のドラッグチェーン大手)のポイントカードを捨てること。「ああもう使うことないね。」って。ドラッグストアがあって、そこで物を買う生活がまた来るなんて全く思わなかったから。

電気がなくて、灯りはろうそく。水も出ない。テレビもネットもない。夜は暗いし寒くても暖房ないから、日が落ちたら寝る。これからそんな大昔みたいな時代に戻るんだ。本気でそう思ってた。悲しいとかつらいとか、そんなこと言える段階じゃない。そういうものだと、ただ受け入れていた。今から思えば、それも不思議だけれど、今もその時の感覚が深く体に残っている気がする。

 ***<思ったこと>*** 

Kさんとは何度も会ってお話をしているのに、こんな話を聞くのは初めて。

何の前触れもなく一変する世界。自分も大きく傷ついているのに、より傷ついた人を前にして罪悪感を感じずにいられないという人間のこころ。体験の差によってどうしようもなく存在する意識の壁。「共感する」ことの難しさ。

話を聞く私たちにも、到底理解は及ばないことだけれど、それでも語ってくれてうれしかった。まだまだたくさん、胸の中に残っているはずの記憶や思い、またいずれ聞かせてほしいと願っています。


震災時のこと、その後のこと、いま現在のこと。

被災地訪問で出会った方々から聞いたお話をご紹介します。

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